「読書禁止法案が可決されたので、3月から読書禁止となります。」
・・となったらどう思うだろうか?
僕はパニックになり、発狂し、頭を掻きむしりながら、最後の読書に没頭するかもしれない。
いやいや、読書なんかしなくても別に困りませんよ。…という人もいるはず。別に「情報をインプットする方法」なんて現代では腐るほどあるからだ。
noteだって、AIだって、ブログ記事だって、YouTubeだって良い。知りたい情報を検索して、自分の欲しい情報を見つけるにはインターネットがあれば十分事足りる。
でもやっぱり、というか絶対に、読書は無くならない。と、僕は断言する。
なぜかと言えば、読書には情報をインプットする以外の魅力で溢れているからだ。
人それぞれ感じる魅力ポイントは違うので、一言でコレ!という魅力を挙げるのは難しいが、
一応、僕なりの読書の魅力を挙げてみると、(※紙でも電子でもどちらでも)
・一つの書籍に知りたい情報がまとまっているので体系的に理解しやすい
・注意力が散漫にならず、一つの書籍に集中できる
・思わぬ発見があり、知と知のつながりを感じられる
・知らない「言葉」に出会える
・著者特有の多彩な表現、世界観に触れることができる
・視野が広がる
・思考力が上がる
という感じだろうか。
まあ、色々と挙げてはみたが、言語化できる魅力とかは究極的にはぶっちゃけどうでもいい。
シンプルに「楽しい」という「感覚」が、読書している一番の理由であり、魅力的な要素だからである。
こういった「感覚」は、無理に言語化する必要もない。
言語で理解するというより、身体感覚として捉えるほうがシックリくる。
あと、無理に言語を割り当てた瞬間に、「それ」が目的になってしまう気もする。
※例えば、思考力を鍛えられるのが読書の魅力だ!って言語化したら、思考力を鍛えるために読書する、など。・・・別にそれはそれで良いのだが、僕は読書を「目的達成のための手段」として捉えたくないという思いもある。
何が言いたいかって、
情報収集と読書は別物であり、代替えできない行為であるということ。だからこそ、禁止されたら僕は発狂する。
もちろん、情報収集が目的の読書もあるし、あってもいい。
ただ、僕にとっての読書は「行為そのもの」が大きな楽しみだからだ。
目的地に飛行機でビュンと着くのもいいけど、鈍行列車でガタンゴトンと揺られながら、風景を楽しむような感覚に似ている。
そんな風に、読書に浸っている時間が僕にとって心地よいのだ。
・・・・
読書について僕の考えを語ってきたが、冒頭の「読書禁止法案」は、あながち冗談とも言えない話だったりする。
実際、昔カトリック教会では「禁書目録」という、信徒が読んじゃいけない本のリストを公表していた。
信仰上、好ましくない思想が含まれている本は禁書目録として指定されてたようだ。
子どもはゲームやっちゃダメ!とか、お笑い番組観るとバカになるぞ!みたいな、親のしつけの超強力バージョンというイメージに近いかもしれない。
逆に言えば、他者の思想にふれるとカンタンに「人の認知は変わる可能性がある」ということ。
そして「植え付けたい思想を意図的に広める」のが、いわゆる「扇動(プロパガンダ)」である。
もちろん、日本でも起こりうる可能性は十分にある。
例えば、日本の「天皇」は2600年以上も昔から存在してるとても偉い人たちであるが、
そんな天皇に対して侮辱的な思想だったり、国の尊厳が危ぶまれるような危険思想を発信してる人、もしくはそういったことが書いてある本があったとしたらどうだろうか?
「禁書目録」的なものが出てきてもおかしくないし、危険思想を持った人に対して圧力が加えられて一瞬で追放されてしまいそうだ。
要は、統治する側にとって都合が悪い思想とかは広めたくないわけである。
それくらい人の認知・行動を変えるほどのパワーを持ってるのが「本」だということ。
そして、ドイツで活版印刷が発明される以前の時代では、本を持っている人が「圧倒的な力」を持っていた。
平安時代の貴族で菅原道真(すがわらのみちざね)という人がいる。福岡県の太宰府天満宮に祀られている人だ。
いわゆる学問の神様と呼ばれてる人で、かなり有名。受験の合格祈願で遠くから祈願に来る人も沢山いるらしい。
この人のおじいちゃんとお父さんが超スーパーエリートだったらしく、道真(みちざね)も英才教育を受けて出世街道を歩むことになる。
出世しまくって天皇にも気に入られて活躍してたのだが、だんだんと「あいつちょっと調子ノリすぎじゃね?」的な雰囲気が漂い、太宰府へと左遷されてしまう。
会社で例えると、上司から可愛がられてた部下に対して、他の社員が妬んで嫌がらせをして、上のポジションから引きずり下ろしたって感じだろうか。
そして、左遷先の太宰府ではお金も無く、体調も崩し、苦しい思いをしたまま亡くなってしまうのだ。
そんな出世街道を歩んだ道真だが、当然ながら平安時代にインターネットも、図書館もない。
じゃあどうやって道真は勉強したのかと言えば、「家にある本を読みまくった」わけだ。
菅原家は「菅家廊下(かんけろうか)」っていう私塾をひらいていたのだが(現代で言えば大学受験に合格するための予備校みたいなところ)、そこで道真も猛勉強していた。
つまり、図書館も無い、インターネットもない時代においては、
「本を持っている家」に生まれることが、成功を掴むためには欠かせない要素だったのだろう。
いわば、「究極の親ガチャ」みたいなもの。道真は運良くSSSレアくらいの家に生まれたことになる。
その後、多くの天才たちのおかげで技術が発達し、現代は「いつでも」「どこでも」「誰でも」情報・書籍にアクセス可能な状態となった。
こうやって昔の実情とかを知ると、今の状態は本当にありがたいと感じるものの、いつでもどこでも読めるからこそ、発生するデメリットも出てくる。
いつでもできることは、いつまでもやらないのと同じで、いつでも読める本には価値を感じづらくなるみたいな感じ。
ブックオフで100円で購入した本よりも、3000円払って新品で購入した本のほうが真剣に読むのと同じだ。
今回は「読書」について語ってみた。
仮に、自分にとって「禁止されたら発狂すること」はどんなことだろうか?
・書くこと?
・SNS発信?
・漫画?
・映画?
・ゲーム?
・絵を描くこと?
・音楽聴くこと?
今想像してみて、禁止されたら発狂するなぁ、と感じたものがあるのなら、わりと大きな発見かもしれない。
それは、あなたが「発狂するくらい好き」だということだからだ。
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